堺から、京都へ舞台は移ります。
豊臣秀吉の時代、文化的な事は、天下の「なにわ」ではなくて、京都で繰り広げられていたのだと、利休を追って改めて感じます。
京都のお寺には、利休を始め、茶人達の作った庭や、茶室がある寺が所々にあります。
今回はまず、古田織部が作った興聖寺へ


茶室から見たお庭。
利休は茶室に入るまでのアプローチに、季節を感じたりと、配慮していたのに対して、織部は、茶室からみた中庭を作る事に、重きを置いたようです。
興聖寺庭園は、通常は非公開なのですが、特別にみせてもらえるツアーに参加して、みせて頂きました。
昔の日本のお屋敷は、自然と家が一体となっている。
ここにも茶の心があるのでしょうね。
次は大徳寺の聚光院。
応仁の乱により荒廃後、一休宗純が再興し、織田信長、豊臣秀吉など戦国武将ゆかりの塔頭が建立されました。
茶の湯との関わりが深く、塔頭の多くに茶室が設けられ、「大徳寺の茶面(ちゃづら)」とも呼ばれています。
三門「金毛閣(きんもうかく)」の上層は、天正17年(1589)に利休が増築・寄進したもの。
楼上には利休の等身大の木像が安置されました。
しかしその後、雪駄をはいたこの像が「雪駄で踏みつける」ことになり、高貴な人もくぐる門の楼上に置くとは「不敬不遜」と秀吉の逆鱗に触れ、利休は自刃に追い込まれました。利休の墓は現在、塔頭の聚光院(非公開)にあります。
なんとも利休にとっては、悲しい場所になってしまうのですが、、、
聚光院のお庭に百積の庭という、利休が作った庭がありました。
そこに利休を感じ、そのセンス、感性は、ミケランジェロ、ダヴィンチ、などなどの大芸術家に通じると感じました。

百積の庭(写真不可、でしたので、ホームペジより拝借しました。)
この後は、正伝永源院へ。

室町・戦国時代の茶人で、千利休の師としても知られる武野紹鷗(たけのじょうおう)。
1579(天正7)年に建立された紹鷗の供養塔が、このほどゆかりある建仁寺塔頭・正伝永源院(しょうでんえいげんいん)に戻り、今回みる事が出来ました。

もとは、正伝永源院の前身である正伝院にあったもので、織田信長の弟で茶人の武将、織田有楽斎が、江戸時代に正伝院を再興し、武野紹鷗を敬愛する気持ちから懇願して自坊にこの供養塔を移していました。
ところが、明治初期の廃仏毀釈により寺の土地が没収され、1916(大正5)年に供養塔は、関西財閥藤田家の藤田平太郎の手に渡ります。長年藤田家の邸宅(および跡地)に置かれていましたが、有楽斎の400年遠忌にあたるこの2021年、庭園の所有者変更にともない、藤田家より奉納されることとなり、供養塔はおよそ100年ぶりに、正伝院の歴史を継ぐ正伝永源院に戻ってきたのです。
丁度その供養塔を眺める様な位置に織田有楽斎の像がありました。
そして、織田信長の弟でありながらも、戦には興味を示さず、お茶三昧の暮らしをした有楽斎が作った茶室「如庵」

武士が夢中になる茶道の魅力が今も続いています。
村田珠光から始まる「侘び茶」完成への流れを、武野紹鴎がさらに洗練させ、紹鴎の弟子である千利休が完成させたのです。
利休生誕500年の今年、利休を訪ねて、堺・京都の旅はとても意味深い物がありました。
利休を訪ねて・終
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