パルマ紀行2 マリアルイーザ
2009年 12月 05日

Museo Glauco Lombardi ではマリアルイーザとナポレオンの遺品が展示されています。パルマの発展はこのマリアルイーザが大いに関係していると思います。ここでマリアルイーザの歴史を紹介します。


←写真は若かりし頃のナポレオン






マリア・ルイーザは、ナポレオンの誕生日には自分の髪の毛やローマ王の胸像を送り、何通も手紙を書いて送った。一方、ナポレオンの方もマリー・ルイーズがローマ王を連れてやってくるのを心待ちにしていた。そのため、息子アレクサンドルを連れてエルバ島にやってきた愛人マリア・ヴァレフスカでさえ、3日で追い返してしまった。
ところがエクス=レ=バンでは、洗練された貴族であるナイペルク伯が、機知に富んだ会話などでたちまちマリア・ルイーザの心を捉えてしまっていた。そして彼女はついにナポレオンの事を忘れ、ある秋の日に散歩の途中で嵐にあって避難したソレイユ・ドールと呼ばれる簡素な宿舎で、ナイペルク伯と男女の関係を持ったという。このため、1815年2月26日にナポレオンがエルバ島を脱出したとの知らせを聞いて、マリア・ルイーザは仰天した。そして彼女は「再びヨーロッパの平和が危険にさらされる事になるのです」と言った。
3月20日、ナポレオンはマリア・ルイーザに宛てて、帰ってきてくれるよう何通も手紙を書いて送ったが、彼女は一切返事を書こうとはせず「何があってもあの人の許に行くつもりはありません」と言った。




1832年7月21日、ライヒシュタット公の教育係ディートリヒ・シュタインの再三の手紙によりやっとウィーンのライヒシュタット公の元へ訪れたマリア・ルイーザは病床のやつれた息子の顔を見て、さすがに良心の呵責に苛まれたという。同年7月22日、ライヒシュタット公は死去した。翌日、マリア・ルイーザはナポレオンの母マリア・レティツィアに孫の死を手紙で知らせた。

1829年2月22日にナイペルク伯が死去した後、パルマ統治の補佐役としてやってきたシャルル・ルネ・ド・ボンベルとマリアルイーザは1834年2月17日に結婚した。その翌年父フランツ皇帝が病死するとマリールイザはもうウィーンに行く理由は亡くなり、パルマが最も心安まる地になった。そこにマリールイーザが残したものは大きい。道路、橋の建設に始まり、学校と商工会議所の設立、病院の増設。ワイン産業を中心とした農業の発展に努め、著名な作家や芸術家を次々と招き、パルマを他の大都市に負けないような文化としにしたのである。
彼女自身がその文化都市にふさわしい文化人だった。パリで身に付けたセンスはパルマで花開き歳を重ねるたびに益々エレガントになって行った。パリの流行に遅れないようにと数々の雑誌を取り寄せ注文も出していた。パルマの宮廷ではフランスの劇作家モリエールやラシーヌの劇が上演されフランスからわざわざ呼び寄せた料理人による料理に舌鼓を打ちパルマは小パリにさえなっていた。フランス製の香水をふりかけ、地上の楽園パルまでの生活をマリアルイーザは誰よりも愛していた。

1847年12月17日、マリア・ルイーザは死去(享年56歳)
*長い長いレポートになりました。最後までおつき合いくださってありがとうございます。
Museo Glauco Lombardにご一緒してくれたLabraneさん、思い出して参考にしてくれると嬉しいです!


日頃音楽にしか触れてないので、少しオリコウさんになれました。
和子さんに感謝です!

パルマにはおいしいものがいっぱいあるよね。kazukoさんちのワインとも合うんじゃないかな。

ご一緒した後、マリア・ルイーザのこと調べよう(本 読もう)と思いながら 今日になってしまいました。トホ…
でも、このレポート読むと益々興味をひかれる女性ですね。あんなに小さなドレスに包まれていた華奢な女性…
やっぱり、本探そう~
マリア側から書かれたもの、ナポレオン側から書かれたもの両方読むと 尚 面白そうですよね!
追)
昨日、頂いたワイン開けました。大事に飲むはずだったのにあの香りに抗えるはずもなく…あ~ぁ…


私も鍵コメさんが読んだ本を日本で読んでいたのです。
ですからパルマでマリアルイーザを見たときすぐに「あっ」ってわかったのです。
英雄色を好むので色々興味深く読みましたよ。
パルマとパリは昔から縁があるのですね。
私はたまたま日本でナポレオンに関する本を読んでいてマリアルイーザの肖像画を見ていたのです。
そして歩いていたら本当に目の前に飛び込んできたのです。
なんだか知っている人に会ったみたいでしたよ。
パルマは本当に美味しいものが一杯ありますね。
クラテッロにノックダウンでした!
こちらこそご一緒してくれてありがとう。
おっしゃるように両方の側からの意見は大切ですよね。
ナポレオンはマリアルイーザ以外にも愛人がいたし。。。
冷静なLabraneさんらしい意見です。
ワイン飲んで下さったのですね。
味変わってませんでしたか?
コレッジョもパルミジャーノも有名で見るに値する素晴らしいものですよ。
それでもパルマの発展に貢献したマリアルイーザも重要だと思ってレポートしました。
お役に立てたら嬉しいです。
ナポレオンはライヒシュタット公が本当に小さい頃「私の息子はなんて幸せ者だ。全てが手の中にある運命にある」といって溺愛したそうです。
それがこんなにも悲運な王子の生涯になるなんて。。。
パルマの繁栄の後ろにはライヒシュタット公の母への切望や悲しみがあるのですよね。
マリアルイーザも彼が死にナイペルク伯も死んでいたので次に補佐になったシャルル・ルネ・ド・ボンベルはフランス人でライヒシュタット公とナポレオンの話をしたりして親しかったそうです。
その人と結婚した事でフランスやパリ,ナポレオン,そして悲運な王子、ライヒシュタット公を思いながら晩年過ごしたのでしょうね。
運命とは時に残酷です。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。


変わってないですよぉ
暖房がきいている部屋だったからか 余計に香りがたってました。
売ってるものは(しょうがないんでしょうが)余分なものが入っちゃってるんだなぁっていうのがよくわかる 味と香りでした。
ごちそうさまでした。
帯では「大叔母はマリー・アントワネット…」なんてあおってあり
内容も息子の事を思いつつ…なんてドラマチックになっていました
史実と比較すると面白いですね
それにしても何でも手に入る生涯を送ってもおかしくない方なのに
悲しい生涯のお王子様ですね
そうなんですよ。マリアルイーザはオーストリアのハプスブルグ家出身なのです。
ナポレオンと結婚する時もマリーアントワネットと血縁関係がある事でちょっと問題という人も居たそうですよ。
歴史はやはり作られている部分もあると思います。
その事もわかりながら色んな文献を読んで少しでも真実をわかりたいですね。
人の人生って周りからはわからない事って色々あるんでしょうね。
パルマの街並、黄色い建物多かったです。
それはマリアルイザが好きな色だったからなのですね。
やはりパルマでは彼女の存在は大きいのですね。
好きな香水はヴィオレッタ、ディ、パルマってどんな香りかしら?
機会があったら嗅いでみたいです。
と楽しみも増します!ありがとうございます。
いえいえ、お役に立てたのなら私もとても嬉しいです。
好きな事はとことん精通するタイプで偏りがちになってしまいますが
また興味深い事にであったら記事にします。