パルマ紀行2 マリアルイーザ
2009年 12月 05日
Museo Glauco Lombardi ではマリアルイーザとナポレオンの遺品が展示されています。パルマの発展はこのマリアルイーザが大いに関係していると思います。ここでマリアルイーザの歴史を紹介します。
マリア・ルイーザはオーストリア皇帝フランツ1世の長女として生まれた。彼女はナポレオンの侵略によってシェーンブルン宮殿を2度に渡って追い出され、ナポレオンは恐ろしい憎むべき男だと教えられ、「ナポレオン」と名を付けた人形をいじめながら育ってきた。彼女は、ナポレオンのジョゼフィーヌとの離婚を知った時に「次に妃として迎えられる人に心から同情すると共に、それが自分でないように願っている」と親しい友人に宛てて手紙を書き送ったくらいであった。そのため、自分とナポレオンが結婚しなくてはならなくなったと聞かされた時には泣き続けたという。
1810年4月1日、マリア・ルイーザはルーヴル宮殿の礼拝堂で皇帝ナポレオンと結婚式を挙げた。しかし、ナポレオンと共に日々を過ごすようになってみると、自分に対してとても優しかったため、マリア・ルイーザは心を許し、ナポレオンを愛するようになっていった。
←写真は若かりし頃のナポレオン
実際マリアルイーザが結婚した頃は←写真の頃のナポレオン
1811年3月20日、マリア・ルイーザはローマ王(ナポレオン2世)を出産した。この時、大変な難産で母子のどちらかしか助けられないかもしれないと医師から聞かされたナポレオンは、ためらわず「母を救え!」と言ったという。ナポレオンはこの息子の誕生を大喜びし、とても可愛がったが、マリア・ルイーザはあまりこの子供に関心を示さなかった。ただ微笑みながら見つめているだけで、女官達が彼女には母性愛が欠けているのではないかと本気で心配するほど、子供の養育を養育係に任せきりにした。そのため、ローマ王が最もなついたのはモンテスキュ夫人で、彼が口がきけるようになって最初に発した言葉は「ママン・キュ」で、夫人を大いに感激させたという。
しかし、1812年にナポレオンはロシア遠征に失敗し、1813年のライプツィヒの戦いでも大敗する。1814年にはオーストリアのシュヴァルツェンベルク将軍、プロイセンのブリュッヒャー将軍、かつてのナポレオンの部下でスウェーデン王太子となったベルナドット将軍、イギリスのウェリントン公による大規模なナポレオン包囲網が築かれつつあり、さらにナポレオンと帝国は苦境に追い込まれていった。万一の事を考え皇后とローマ王は一刻も早く安全な場所に避難すべき皇后とローマ王を速やかにパリからランブイエに移し、けっして敵の手に渡す事がないように万全を尽くすべしというナポレオンの命令で1814年3月29日朝、マリア・ルイーザとローマ王は10台の大型馬車でランブイエに向けて発つ事になった。しかし、ランブイエにも既に危険が迫っている事がわかり、マリア・ルイーザ一行は、さらに遠いロワール川の方にあるブロワ城に向かってさらに進んだ。城に着いたのは4月2日の夜中だった。それから6日後の4月8日に、マリア・ルイーザは夫がフォンテーヌブロー宮殿で退位した知らせを受け取った
ナポレオンがいるフォンテーヌブロー宮殿が、自分のいるブロワ城からそれほど遠くないとわかった時、彼女は直ちに馬車を用意させ、ナポレオンの許へと向った。しかし、その道中ジャン・ランヌ元帥の未亡人であるモンテベロ夫人は、ナポレオン皇帝が国を失った今となっては、せめてマリア・ルイーザとローマ王の今後だけでもフランツ皇帝に嘆願して保証してもらうようにと、執拗に助言し続けた。モンテベロ夫人は、エルバ島行きなどまっぴらごめんだと思っていた。彼女の説得でマリア・ルイーザはナポレオンに宛てに「今すぐにはあなたの所に行かずにまず父に会おうと思うのです。エルバ島でのあなたの待遇改善と、私達の息子のためにトスカーナ大公国を要求するためです。善良な父は私の涙に感動し、きっとあなたの運命も変わる事でしょう」と手紙を書いた。
しかし、当然フランツ1世は娘の訴えなど聞く気はなかった。皇帝もメッテルニヒも、マリア・ルイーザをあくまで一時的にナポレオンの許に嫁がせたに過ぎなかった。そしてトスカーナは元の統治者であるトスカーナ大公フェルディナンド3世(フランツ1世の実弟、マリア・ルイーザの叔父)に返還し、マリア・ルイーザのためにはパルマ公国の統治権をと考えていたのである。その後4月12日に、モンテベロ夫人の意を受けたと思われる、フランツ2世の使者を名乗る人物が突然マリア・ルイーザの所にやってきて、半ば強制的に彼女とローマ王を連れて行ってしまった。この夜、全てに絶望したナポレオンはフォンテーヌブロー宮殿で毒をあおった。
マリア・ルイーザはロシア兵が守備するランブイエの城で、ナポレオンへの手紙を書く事も、彼からの手紙を受け取る事もなく、しばらく過ごす事になった。やがてそこで父フランツ1世と再会した彼女は、オーストリアへと帰国した。フランツ1世はやつれた彼女に、「しばらくエクス=レ=バンにある温泉でゆっくりと静養し、そこからエルバ島に行けばいい」と言った。その言葉に従い、マリア・ルイーザはウィーンにローマ王を残したまま、保養地のエクス=レ=バンに向った。エクス=レ=バンに向う際、マリア・ルイーザにはメッテルニヒによって付けられた護衛兼監視役のナイペルク伯が同行した。メッテルニヒは彼に「エクス=レ=バンにマリア・ルイーザが滞在中、必要な手段を用い、エルバ島のナポレオンに合流したいという望みを断念させる事。もしいかなる手段を用いてもエルバ島行きを断念せず実行する場合には、同行すべし」と命令していた。この命令を受けたナイペルク伯は「10ヶ月も経たないうちに恋人になり、それから間もなくして夫になってみせるさ」と豪語した。彼は42歳の妻子ある男性で、フランスとの戦いで右目を失い、ナポレオンを憎悪していた。
マリア・ルイーザは、ナポレオンの誕生日には自分の髪の毛やローマ王の胸像を送り、何通も手紙を書いて送った。一方、ナポレオンの方もマリー・ルイーズがローマ王を連れてやってくるのを心待ちにしていた。そのため、息子アレクサンドルを連れてエルバ島にやってきた愛人マリア・ヴァレフスカでさえ、3日で追い返してしまった。
ところがエクス=レ=バンでは、洗練された貴族であるナイペルク伯が、機知に富んだ会話などでたちまちマリア・ルイーザの心を捉えてしまっていた。そして彼女はついにナポレオンの事を忘れ、ある秋の日に散歩の途中で嵐にあって避難したソレイユ・ドールと呼ばれる簡素な宿舎で、ナイペルク伯と男女の関係を持ったという。このため、1815年2月26日にナポレオンがエルバ島を脱出したとの知らせを聞いて、マリア・ルイーザは仰天した。そして彼女は「再びヨーロッパの平和が危険にさらされる事になるのです」と言った。
3月20日、ナポレオンはマリア・ルイーザに宛てて、帰ってきてくれるよう何通も手紙を書いて送ったが、彼女は一切返事を書こうとはせず「何があってもあの人の許に行くつもりはありません」と言った。
同年6月18日、議会でマリア・ルイーザのパルマ統治が決定された。息子のローマ王が同行できない事を知っても、彼女は少しもパルマ行きをためらわなかった。彼女の頭の中には、ナイペルク伯との新しい生活の事しかなかったのである。この3ヶ月後にナポレオンがワーテルローの戦いに敗れ、セント・ヘレナ島に流されるのを知ると「これで世の中は安泰です。ナポレオンは2度と平和を揺るがす事ができないのですから。後は、人々が善意と寛容な心を持ってあの人に接してくださる事を望むのみです。私があの人の運命について関わるのはこれが最後です」とフランツ1世に宛てて手紙を書いて送った。翌1816年3月7日、マリア・ルイーザはナイペルク伯と共にパルマに向けて旅立った。
一方、ローマ王の方は監禁同然の淋しい生活を送り、母マリア・ルイーザと別れてから初めての面会を楽しみにしていた。しかし、マリア・ルイーザは1817年5月1日にナイペルク伯との娘アルベルティーナを秘密のうちに出産すると、ローマ王との約束を簡単に破った。母親に約束を破られたローマ王は大変に悲しんだ。マリア・ルイーザが重い腰を上げ、息子に会いに行ったのは別れてから2年も経った1818年7月の事だった。ローマ王と再会した後、パルマに戻ったマリア・ルイーザは、1819年8月9日にナイペルク伯との2人目の子供グリエモをやはり秘密のうちに出産し、またしてもローマ王に会うためにウィーンに行く事を中止した。
1821年5月5日、ナポレオンがセント・ヘレナ島で死去した。マリア・ルイーザは「セビリアの理髪師」を観にオペラ座に行った時に偶然見かけた新聞でナポレオンの死を知った。ナポレオンはマリア・ルイーザに、自分の心臓を保管して欲しいと遺言していたが、彼女は「私の願いは、あの人の心臓があの人のお墓の中に葬られる事です」と一言のもとに断り、その代わりにデスマスクを受け取った。しかし、そのデスマスクもしばらくすると彼女の子供達の遊び道具の一つとなった。
1825年ローマ王はライヒシュタット公になり、目覚ましい成長を遂げていた。歳を重ねるごとにダンスや狩猟以上に学問に専念し、特に歴史は彼を熱中させずにおかなかった。いつの日か父ナポレオンのように大隊を指揮する勇気ある軍人になる事、それがライヒシュタット公の夢であった。父を求め歴史を通して父を感じ父とともに居たのです。しかし彼は若い命を奪う事になる病気の恐ろしさにも知らず、無視したばかりでなくひた隠しにして連日、猛烈な軍事訓練に励んでいたのだった。
1832年7月21日、ライヒシュタット公の教育係ディートリヒ・シュタインの再三の手紙によりやっとウィーンのライヒシュタット公の元へ訪れたマリア・ルイーザは病床のやつれた息子の顔を見て、さすがに良心の呵責に苛まれたという。同年7月22日、ライヒシュタット公は死去した。翌日、マリア・ルイーザはナポレオンの母マリア・レティツィアに孫の死を手紙で知らせた。
1829年2月22日にナイペルク伯が死去した後、パルマ統治の補佐役としてやってきたシャルル・ルネ・ド・ボンベルとマリアルイーザは1834年2月17日に結婚した。その翌年父フランツ皇帝が病死するとマリールイザはもうウィーンに行く理由は亡くなり、パルマが最も心安まる地になった。そこにマリールイーザが残したものは大きい。道路、橋の建設に始まり、学校と商工会議所の設立、病院の増設。ワイン産業を中心とした農業の発展に努め、著名な作家や芸術家を次々と招き、パルマを他の大都市に負けないような文化としにしたのである。
彼女自身がその文化都市にふさわしい文化人だった。パリで身に付けたセンスはパルマで花開き歳を重ねるたびに益々エレガントになって行った。パリの流行に遅れないようにと数々の雑誌を取り寄せ注文も出していた。パルマの宮廷ではフランスの劇作家モリエールやラシーヌの劇が上演されフランスからわざわざ呼び寄せた料理人による料理に舌鼓を打ちパルマは小パリにさえなっていた。フランス製の香水をふりかけ、地上の楽園パルまでの生活をマリアルイーザは誰よりも愛していた。
1847年12月17日、マリア・ルイーザは死去(享年56歳)
*長い長いレポートになりました。最後までおつき合いくださってありがとうございます。
Museo Glauco Lombardにご一緒してくれたLabraneさん、思い出して参考にしてくれると嬉しいです!
日頃音楽にしか触れてないので、少しオリコウさんになれました。
和子さんに感謝です!
パルマにはおいしいものがいっぱいあるよね。kazukoさんちのワインとも合うんじゃないかな。
ご一緒した後、マリア・ルイーザのこと調べよう(本 読もう)と思いながら 今日になってしまいました。トホ…
でも、このレポート読むと益々興味をひかれる女性ですね。あんなに小さなドレスに包まれていた華奢な女性…
やっぱり、本探そう~
マリア側から書かれたもの、ナポレオン側から書かれたもの両方読むと 尚 面白そうですよね!
追)
昨日、頂いたワイン開けました。大事に飲むはずだったのにあの香りに抗えるはずもなく…あ~ぁ…
私も鍵コメさんが読んだ本を日本で読んでいたのです。
ですからパルマでマリアルイーザを見たときすぐに「あっ」ってわかったのです。
英雄色を好むので色々興味深く読みましたよ。
パルマとパリは昔から縁があるのですね。
私はたまたま日本でナポレオンに関する本を読んでいてマリアルイーザの肖像画を見ていたのです。
そして歩いていたら本当に目の前に飛び込んできたのです。
なんだか知っている人に会ったみたいでしたよ。
パルマは本当に美味しいものが一杯ありますね。
クラテッロにノックダウンでした!
こちらこそご一緒してくれてありがとう。
おっしゃるように両方の側からの意見は大切ですよね。
ナポレオンはマリアルイーザ以外にも愛人がいたし。。。
冷静なLabraneさんらしい意見です。
ワイン飲んで下さったのですね。
味変わってませんでしたか?
コレッジョもパルミジャーノも有名で見るに値する素晴らしいものですよ。
それでもパルマの発展に貢献したマリアルイーザも重要だと思ってレポートしました。
お役に立てたら嬉しいです。
ナポレオンはライヒシュタット公が本当に小さい頃「私の息子はなんて幸せ者だ。全てが手の中にある運命にある」といって溺愛したそうです。
それがこんなにも悲運な王子の生涯になるなんて。。。
パルマの繁栄の後ろにはライヒシュタット公の母への切望や悲しみがあるのですよね。
マリアルイーザも彼が死にナイペルク伯も死んでいたので次に補佐になったシャルル・ルネ・ド・ボンベルはフランス人でライヒシュタット公とナポレオンの話をしたりして親しかったそうです。
その人と結婚した事でフランスやパリ,ナポレオン,そして悲運な王子、ライヒシュタット公を思いながら晩年過ごしたのでしょうね。
運命とは時に残酷です。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。
変わってないですよぉ
暖房がきいている部屋だったからか 余計に香りがたってました。
売ってるものは(しょうがないんでしょうが)余分なものが入っちゃってるんだなぁっていうのがよくわかる 味と香りでした。
ごちそうさまでした。
帯では「大叔母はマリー・アントワネット…」なんてあおってあり
内容も息子の事を思いつつ…なんてドラマチックになっていました
史実と比較すると面白いですね
それにしても何でも手に入る生涯を送ってもおかしくない方なのに
悲しい生涯のお王子様ですね
そうなんですよ。マリアルイーザはオーストリアのハプスブルグ家出身なのです。
ナポレオンと結婚する時もマリーアントワネットと血縁関係がある事でちょっと問題という人も居たそうですよ。
歴史はやはり作られている部分もあると思います。
その事もわかりながら色んな文献を読んで少しでも真実をわかりたいですね。
人の人生って周りからはわからない事って色々あるんでしょうね。
パルマの街並、黄色い建物多かったです。
それはマリアルイザが好きな色だったからなのですね。
やはりパルマでは彼女の存在は大きいのですね。
好きな香水はヴィオレッタ、ディ、パルマってどんな香りかしら?
機会があったら嗅いでみたいです。
と楽しみも増します!ありがとうございます。
いえいえ、お役に立てたのなら私もとても嬉しいです。
好きな事はとことん精通するタイプで偏りがちになってしまいますが
また興味深い事にであったら記事にします。